三つ葉のクローバー

ラブライブ!が好きです。無印の推しは穂乃果、希。サンシャインはダイヤ。新田恵海さんのファンです。

みんなで叶える物語という綺麗事(ファンタジー)ファイナルラブライブから2年、終わらない青春を再考する

 μ'sのことでなにか書いてみたかった。そこでファイナルライブ2周年記念にみんなで記事をあげようとかいう企画を見つけたのでまあちょうどいい機会だと思って。その企画自体には半月くらい遅刻したのでその企画とは無関係になったけど。

 

 さて、なんでこんなタイトルにしたかというとこのブログのアクセス解析を眺めていたときに「みんなで叶える物語 綺麗事」で検索してこのブログにたどり着いた人がいるのを見つけたからだ。まああのストーリーが綺麗事じゃないかと言われるとそうでもないというか、現実感があるかと言われるとそうでもないというか、確かにそういう感じはする。

 でもそれは制作陣も意図的にやっていることというか、現実感よりも「みんなで叶える物語」を貫き通すことを優先した結果ああいうストーリーになったのだろう。ストーリー構成の花田十輝も「彼女たちの夢が大人の事情に阻まれることがあってはならない」みたいなことを何かのインタビューで言っていた気がする。花田じゃなくて監督だったっけな。

 だからみんなで叶える物語は綺麗事というよりは幻想(ファンタジー)みたいなもんで、ラブライブの舞台はある種ディズニーランドみたいなもんだったんじゃないかなって僕は思う。

 ディズニーランドの中からは外の景色が全く見えないようになっている。現実から隔絶されているからこそ僕らはそれこそリトル・マーメイドのザリガニが言うような「最低な人間の世界」をひととき忘れ、ファンタジーの世界にどっぷりと浸かることができるのだ。

 ラブライブも青春モノには絶対と言ってもいいほどに出てくる抑圧する大人を排除することで、「朝から晩まで働くだけ」の僕らはひととき現実を忘れて画面の向こうの「みんなで叶える物語」を純粋な気持ちで応援することができるのだ。

 

 じゃあなんである種現実逃避のようなこの作品が生まれ、社会現象を巻き起こすまでになったのだろう。僕はラブライブ!という作品が生まれた時代が関係あるんじゃないかと思っている。

 近年のアニメ史を語るのに、魔法少女まどか☆マギカ以降という言葉がよく使われているように感じる。まどマギのストーリが他のアニメに与えた影響が大きかったんじゃないかというわけだ。

 僕はまどマギ自体というよりまどマギの放映時に起こった東日本大震災がアニメに与えた影響が大きかったんじゃないかと思っている。

 大震災で東日本がめちゃくちゃになって、原発が爆発して「がんばれ日本」がスローガンになった。同じサンライズの作品であるアイカツ!も震災の影響を受けて、レトロなスポ根路線から実際の明るい話へと方向転換したという話だ。

 スーパーからは商品が消え、フクシマからの放射能に怯え、世間では自粛ムードが漂い、フィクションは明るいストーリーを展開することで僕らの目を閉塞した現実からひととき逸らすことで元気をくれる、そんな時代に生まれたアニメがラブライブだったのだ。(実際にはラブライブが放送された頃には大震災から2年が経っていたわけだが、記憶というのは適当なもので、僕が今思い返すとラブライブはちょうど地震の自粛ムードが薄れて来た頃くらいにやっていたアニメだったように感じられる。)

 ラブライブプロジェクトが始まったのは2010年だ。音ノ木坂学院があるのは神田と神保町と秋葉原の間という設定だが、秋葉原を中心にしたアニメとは違い原作では穂乃果たちは神田を中心に活動している。再開発によって神田の昔ながらの町並みは消えようとしていて、古臭いオトノキには入学希望者が集まらない。そんな時代から取り残されていく学校が原作の舞台だ。

 原作者はどうにも本当はオトノキを廃校にしたかったんじゃないかと僕はG'sの記事やSIDを読んでいると勘繰ってしまう。廃校になったときに枯れてしまうと生徒たちに囁かれている桜だったり穂乃果たちが小さい頃から通っていた文房具屋が閉店するエピソードだったりと……。春色バレンタインがいつまでも発売されないのも原作者がどうしてもオトノキを廃校にしたいというのがあるのかもしれない、もしかしたら。

 アニメ版のラブライブは設定が大きく変わっている。絵里は「はぁい、人生楽しんでる?」なんて言わないしマッキーは彼氏いない歴17年なんて言い出さない。そもそも真姫はマッキーなんて呼ばれていない。

 舞台は再開発で消えゆく神田の街ではないし、大人は出てこないし男も出てこない。穂乃果たちの夢を阻む要素はすべて排除されている。アニメ1話で穂乃果は「だって可能性感じたんだそうだススメ!」と歌い出すと、いきなり道路に踏み出していく。穂乃果が車に轢かれるなどということはない。なぜなら車は大人が乗るものだから。車は18歳になって警察に免許をもらいに行かないと乗ることができない。大人に穂乃果の夢を、ステップを邪魔させることなどできないのがラブライブなのだ。

 ラブライブに大人はほとんど出てこないけれど、ほとんど出てこないからこそ別の形で子供vs大人という構図は現れてくる。穂乃果たちは大人になるということを拒絶しているのだ。

 絵里たちがいなくなったあとのμ'sをどうするかという話は出てくるけれど、絵里たちがμ'sを辞めたあとどうするかという話は一切出てこない。

 「限られた時間を握りしめて」再び走り出したμ'sの物語は、「が最高!」と、の一点に収束していく。アニメ2期で穂乃果たちがラストライブで歌った曲は「僕らはの中で」だ。劇場版ではAngelic Angel,「大事なときはなんだと気がついて」「今宵は今夜は一夜限りのPassion」と、の中で物語を終えようとする。

 しかしそれでスクールアイドルの物語を終えられないと知った彼女たちは、自分たちの物語が自分たちだけで終えられないほど大きくなっていたことを知っていた彼女たちはスクールアイドルみんなの歌をつくり、スクールアイドルみんなのライブを開催する。「明日への期待が膨らんでいい気持ち」と、未来へと続いていくスクールアイドルの物語を。

 だが穂乃果たちはライブの前日に、他のスクールアイドルたちから見れば唐突に自分たちの活動の終わりを宣言する。「受け止めてあげるここで最初は一歩少しためらっても」と輝ける場所を用意した彼女たちは、スクールアイドルの物語を次のスクールアイドルに、もっと言えばAqoursへと託して、自分たちは明日への物語に背を向けたのだ。

 背を向けて向かった先は「今が最高!」だ。μ'sは大人になることを拒絶して、明日への期待が膨らむ物語から背を向けて、今という瞬間をリングへと閉じ込めて永遠になったのだ。ラブライブは穂乃果たちが大人になることを拒絶して、を、走馬灯のように一瞬を永遠にまで引き伸ばした永遠のネバーランドなのだ。

 劇場版の女性シンガーが女性シンガーとしてクレジットされていたのにもここに理由があるように僕は思う。彼女はよっぽど穿った見方をしないかぎりはどこからどう見ても穂乃果だ。彼女が高坂穂乃果としてクレジットされていないのは彼女が大人になってしまったからだ。大人になったウェンディがネバーランドに入れなくなったように、大人になった穂乃果には高坂穂乃果たる資格が無いのだ。

 

 ラブライブサンシャインの物語も、いよいよ佳境を迎えつつある。浦の星は廃校になり、アニメの彼女たちの物語は幕を下ろし、次のライブのサブタイトルはWONDERFUL STORIES だ。0から1へ、次のステップへ、そして素晴らしい物語たちと自分たちのストーリーを総括するに至った彼女たちの物語が終わりを迎える日はそう遠くないだろう。

 けれどμ’sが永遠になったあの日ほどの衝撃を受けることはないだろう。Aqoursのみんなの物語には大人が出てくるし、彼女たちは未来を受け入れている。

 浦の星は大人の都合で廃校になるし、サンシャインのアニメには電話越しとはいえ鞠莉と会話する大人の存在が示されている。何よりもダイヤ、果南、鞠莉の進路が劇中で示されている。そして車の免許を持っていて、浦の星の理事長まで務めていた鞠莉はある種もう立派な大人だ。

 千歌はラブライブが、スクールアイドルが終わっても輝きを求めて何度でも夢を追う紙飛行機を飛ばし続けるだろう。やりのこしたことなどないそう言いたいねいつの日か、そんな日を追い求めて。Aqoursの物語が終わっても、僕たちはその後の彼女たちの物語を想像することができる。

 

 穂乃果たちは、「やり遂げたよ、最後まで」と言い残して、瞬間を閉じ込めたリングの向こう側の永遠へと行ってしまった。僕らは、今でも彼女たちが作り出したμ’sic foreverの瞬間に囚われ、綺麗だねとキラキラだった彼女たちの終わらない青春を眺め続けている。